世界中のヒトの口腔内に分布する巨大な染色体外エレメント「Inocle」の発見 ――微生物がヒト体内の環境変化に適応するメカニズムを解明する一歩――
- ヘッドライン
- 記者発表
東京大学
発表のポイント
◆ヒト唾液マイクロバイオームを解析するロングリードメタゲノム解析手法を開発し、世界中のヒトの口腔内に広く分布する新規染色体外エレメント(Inocleと命名)を発見しました。
◆Inocleは口腔内環境の変化(酸化ストレスや免疫応答、発癌など)に適応するための遺伝子群を保有していることが示唆されました。
◆本成果は、常在細菌がヒトの生理状態の変化にInocleを活用して適応していることを示唆する結果であり、微生物がヒト体内に安定して常在するメカニズムを明らかにすることが期待されます。

Inocleの基本的な遺伝子機能の特徴とInocleが有意に関連するヒト生理機能の一覧
概要
東京大学大学院新領域創成科学研究科の鈴木穣教授と、木口悠也特任助教(研究当時)、濱本渚大学院生、水谷壮利特任准教授(研究当時)、国立がん研究センター東病院の榎田智弘医員、サム・ラトゥランギ大学のJosef S. B. Tuda教授らによる研究グループは、世界中のヒトの口腔内に広く分布する細菌の新規染色体外エレメント(注1)「Inocle(イノクル)」を発見しその基本的な遺伝学的、生態学的特徴を明らかにしました。
本研究ではヒト唾液サンプルに最適化したロングリードシークエンス(注2)を用いたメタゲノム技術(注3)を開発することによって世界中のヒトの口腔内に広く分布するInocleと呼ばれる新規染色体外エレメントの同定に成功しました。詳細な遺伝子解析によってInocleが複数の環境ストレスに適応するための遺伝子群を保有していることが示されました。また、血中のシングルセル解析(注4)およびプロテオーム解析(注5)との統合解析によってInocleが免疫システムと相互作用している可能性を示しました。さらに、頭頸部がん患者と大腸がん患者の唾液ではInocleが明確に減少していることを明らかにしました。これらの結果はInocleがヒトの生理機能の変化に対する口腔内細菌の適応に関与していることを示唆しています。
Inocleの存在は本研究によって初めて同定されました。今後Inocleが持つ機能を詳細に明らかにすることによってヒト体内の環境ストレスに適応するために細菌がどのように染色体外エレメントを活用しているのか明らかになることが期待されます。
発表内容
ヒトに常在する細菌は、複数のストレス要因(栄養競合、薬剤暴露、ヒトの免疫反応など)から生き残るために、さまざまな方法で環境ストレスに対する適応能力を獲得することが知られています。プラスミドに代表される染色体外エレメントは染色体とは独立した遺伝エレメントであり、細菌はこのエレメントを介して遺伝子の水平伝播(注6)を促進し、新たな環境適応遺伝子を獲得します。これらの知見からヒトマイクロバイオーム中の染色体外エレメントの機能を明らかにすることでヒト常在細菌が安定的に体内に定着できるメカニズムの一端を明らかにできる可能性があります。そのため先行研究ではヒト常在細菌の染色体外エレメントを網羅的に探索するためのメタゲノム解析が行われてきました。しかし、メタゲノムデータから染色体外エレメントを同定する既存手法は過去に発見された染色体外エレメント配列を教師データとすることが基本的な戦略です。そのため、本研究グループはヒトマイクロバイオーム中には教師データに含まれない非常に新規性の高いエレメントが存在する可能性があるという仮説を立てて研究を進めました。
ロングリードシークエンスはゲノム配列を情報学的に組み立てる精度を飛躍的に改善するためメタゲノム解析に応用することによって多数の完全長ゲノム配列を同定することに成功しつつあります。そこで、研究グループはこの技術をヒト唾液マイクロバイオーム解析に応用することによって多数の遺伝エレメントを高い完成度の配列として組み立てることに成功しました。これらの配列を既知の遺伝エレメントに分類した結果、90%の配列は既知の遺伝エレメントに分類されましたが約10%の配列が帰属する遺伝エレメントがない新規遺伝エレメントの候補として浮かび上がってきました(図1左)。研究グループは、この新規遺伝エレメントの候補から合計29個の唾液内で非常に存在量の多いエレメントを発見しました。このエレメントは複数の共通した遺伝的、生態的特徴に基づきInocle(イノクル)と命名されました(図1右)。

図1. 新規遺伝エレメントの発見
(左図)ロングリードメタゲノム解析によって組み立てられた配列を各種遺伝エレメントに分類した結果。(右図)Inocle配列の代表例。Inocleは最大395kbの環状構造と複製開始/終結点を持つエレメントであり約300個の遺伝子をコードしている。
世界規模の唾液メタゲノム解析によってInocleの各国における検出率は平均74%に達することが明らかになり、特に4つ発見されたInocleの系統の中でもInocle-αがヒトの口腔内に豊富に存在することが観察されました(図2)。分離培養実験およびゲノム解析によってInocleの主要な宿主細菌としてStreptococcusの存在が示され、塩基組成解析からInocleはプラスミド様エレメントと推定されました。Inocleの遺伝子機能解析によって環境ストレス応答性転写制御遺伝子やDNA損傷ストレス関連遺伝子、酸化ストレス耐性遺伝子などが発見されInocleがさまざまな環境ストレスへの適応に寄与していることが示唆されました。

図2. Inocleの各国の唾液サンプルにおける検出率
All Inoclesは全てのInocle系統を合算した時の検出率、Inocle-α〜δ: Inocleの4つの系統それぞれの検出率を表す。
さらに、Inocleを保有する人と保有しない人の血液のシングルセル解析およびプロテオーム解析によってInocleが複数の免疫細胞と有意に相関すること(図3左)、微生物感染時に活性化するタンパク質群と有意な正の相関を示すことが明らかになりました。さらに頭頸部がん患者の唾液メタゲノム解析を実施することによって患者では健常者と比較してInocle-αが有意に減少していることが明らかになりました(図3右)。これらの結果からInocleは宿主細菌がヒトの免疫システムをはじめとする生理状態の変化に適応する上で重要な役割を果たしている可能性を示しています。

図3. Inocleとヒト生理機能との関連性
(左図)唾液中のInocle-αと血中細胞集団の存在量の相関。3つのB細胞種がInocle-αと有意な正の相関を示し、2種の単球が負の相関を示す。(右図)健常者と頭頸部がん患者の唾液中におけるInocle-αの検出率の比較。
本研究によりヒトの口腔内細菌が環境適応のために活用している染色体外エレメントを発見しました。今後の研究によってInocleがコードする多くの(95%)機能未知遺伝子の機能解明や、世界中のヒトの口腔内に蔓延するための複製戦略、ヒト免疫システムとの相互作用メカニズムなどが明らかになり、ヒト常在菌の染色体外エレメントを介した環境適応メカニズムの解明に寄与することが期待されます。
研究グループ構成員
東京大学
大学院新領域創成科学研究科
鈴木 穣 教授
木口 悠也 研究当時:特任助教
現:スタンフォード大学 博士研究員
濱本 渚 博士課程
兼:株式会社医学生物学研究所 研究員
水谷 壮利 研究当時:特任准教授
現:国立健康危機管理研究機構 国立感染症研究所 検査診断技術研究部 主任研究員
金井 昭教 特任准教授
久世 裕太 派遣職員
鹿島 幸恵 准教授
医科学研究所
石坂 彩 助教
国立健康危機管理研究機構 国立感染症研究所 エイズ研究センター
Lucky R. Runtuwene 主任研究員
国立がん研究センター
東病院 頭頸部内科
榎田 智弘 医員
田中 伸和 レジデント
田原 信 内科長
藤澤 孝夫 医員
先端医療開発センター トランスレーショナルインフォマティクス分野
影山 俊一郎 研究員
山下 理宇 ユニット長
サム・ラトゥランギ大学
Josef S. B. Tuda 教授
論文情報
雑誌名:Nature Communications
題 名:Giant extrachromosomal element "Inocle" potentially expands the adaptive capacity of the human oral microbiome
著者名:Yuya Kiguchi*, Nagisa Hamamoto, Yukie Kashima, Lucky R. Runtuwene, Aya Ishizaka, Yuta Kuze, Tomohiro Enokida, Nobukazu Tanaka, Makoto Tahara, Shun-Ichiro Kageyama, Takao Fujisawa, Riu Yamashita, Akinori Kanai, Josef S. B. Tuda, Taketoshi Mizutani, Yutaka Suzuki* (*責任著者)
DOI:10.1038/s41467-025-62406-5
URL:https://www.nature.com/articles/s41467-025-62406-5
研究助成
本研究は、公益財団法人発酵研究所「データ駆動型ヒト腸内バクテリオファージ分離培養技術の開発(Y-2022-1-010)」、日本医療研究開発機構(AMED)「腸内エコシステムから紐解く薬剤耐性菌出現機構の解明と新たな耐性菌制御法(22fk0108538s0201)」、科研費「ヒトマイクロバイオームにおける新規細菌染色体外エレメントの探索(24K18092)」、科研費「頭頚部扁平上皮癌化学放射線治療における口腔内・腸内細菌叢の統合解析と病態の理解(22K15833)」、科研費 学術変革領域研究(学術研究支援基盤形成)「先進ゲノム解析研究推進プラットフォーム(22H04925)」、ムーンショット型研究開発事業「ウイルス-人体相互作用ネットワークの理解と制御(JPMJMS2025)」の助成を受けて実施されました。
用語解説
(注1) 染色体外エレメント
細菌が持つ染色体とは独立して細胞内に存在する遺伝エレメントを指します。代表的な例としてプラスミドが知られ、遺伝子の水平伝播(注6)を担い、細菌が新たな遺伝子を迅速に獲得することに寄与します。ここにおけるエレメントとはDNAによって構成される遺伝因子を指します。
(注2) ロングリードシークエンス
数十キロ塩基以上の長いDNA配列を解読することができる手法を指します。配列が非常に長いことに起因してゲノム配列を組み立てる情報解析において高い完成度のゲノム配列を構築することができます。
(注3) メタゲノム解析
微生物集団のゲノム配列をまとめて解読する手法を指します。ヒトマイクロバイオームを構成する多種多様な遺伝エレメントのゲノム配列を組み立てることでどのような遺伝エレメントが存在しどのような機能を持っているのか網羅的に解読することができます。
(注4) シングルセル解析
ヒト細胞を集団としてではなく個別の細胞ごとに網羅的に解析する手法を指します。細胞ごとの遺伝子発現データに基づいて個別の細胞を各種細胞種に分類することができるため、1人の血液中にどのような細胞がどのような割合でどのような遺伝子を発現しているかを知ることができます。
(注5) プロテオーム解析
血液中に存在するタンパク質群の存在量を網羅的に明らかにする手法を指します。
(注6) 遺伝子の水平伝播
ドナーとなる細胞からレシピエントとなる細胞に遺伝子が伝播する現象を指します。この現象によってレシピエント細胞は新たな遺伝子を獲得することができます。

