「力」による単一分子の構造変換――活性化エネルギーを下回る消費エネルギーで進行するメカニズムを解明――
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発表のポイント
◆原子間力顕微鏡(AFM)を用いて、金基板上の椀状有機分子「スマネン」1個に力学刺激を加えて構造反転させ、その際に消費された力学エネルギーの精密測定に成功しました。
◆反応に必要な消費エネルギーが、活性化エネルギーよりも小さくなることを発見しました。
◆引力的ファンデルワールス相互作用によりエネルギー消費が抑えられるメカニズムを解明し、メカノケミストリーにおける新たなエネルギー利用のしくみを提示しました。

力による単分子の構造変換の概念図
概要
東京大学大学院新領域創成科学研究科の岩田孝太特任研究員(研究当時)、黒木龍大学院生(研究当時)、杉本宜昭教授らの研究グループは、大阪大学大学院工学研究科の濵田幾太郎教授、久能欄丸大学院生(研究当時)、榎本大矩大学院生(研究当時)、櫻井英博教授らの研究グループと共同で、原子間力顕微鏡(AFM、注1)を用いて単一の有機分子に物理的な「力」を加えることで構造変換を起こし、その反応に消費されたエネルギーが活性化エネルギー(注2)よりも小さくなることを発見しました。
光・電気を用いた単一分子の反応では、活性化エネルギーを超えるエネルギーが消費されます。本研究グループは、椀状の構造を持つ有機分子「スマネン(注3)」を金基板上に吸着させ、AFM探針で押し込むことで分子を反転させる実験を行いました。その結果、力学的に計測された反応のエネルギー消費量が、理論的に求められた活性化エネルギーよりも小さくなることを突き止めました。この現象には、ファンデルワールス相互作用(注4)が関与していることが分かり、探針が力学的なエネルギーを受け取ることで、反応に必要なエネルギーが小さくなるためであることが計算・解析により明らかになりました。
本成果は、力で分子を制御する「メカノケミストリー(注5)」における新たなエネルギー利用のしくみを示すものであり、将来、エネルギー消費を抑えたな化学反応の設計につながることが期待されます。
発表内容
【研究の背景】
化学反応は伝統的に、加熱(熱エネルギー)、光照射(光エネルギー)、電気(電気エネルギー)などによって制御されてきました。これに対し、分子に引っ張りや押し込みといった物理的な力(力学刺激)を加えて化学変化を直接誘起する分野は「メカノケミストリー」と呼ばれ、溶媒や加熱を必要としない環境に優しい次世代の反応プロセスとして注目されています。
これまで、光や電子(電流)を用いて単一分子の反応を起こす手法では、外部から与えられたエネルギーは一方向的に消費され、反応後に回収することはできませんでした。そのため、一度の反応で与えるエネルギーは、分子が反応の障壁を越えるために必要な活性化エネルギーを必ず上回る必要があり、余剰なエネルギーは熱として散逸していました。しかし、力学的な相互作用を用いて単一分子の反応を起こす場合、エネルギーの入力や散逸がどのような挙動を示すのか、また活性化エネルギーと消費エネルギーの関係がどのようになっているのかは未解明のままでした。
【研究の内容と成果】
本研究グループは、原子間力顕微鏡(AFM)を用い、単一分子レベルでのメカノケミストリーのエネルギー収支を検証しました(図1)。実験対象には、サッカーボール状のフラーレン(C60)の骨格の一部であり、椀状の立体構造を持つ有機分子「スマネン」を選定しました。スマネン分子を金の単結晶基板上に吸着すると、椀が「上に凸な状態」と「下に凸な状態」をとります。
極低温(4.8 K、マイナス約268℃)・超高真空環境下において、AFMを用い「上に凸な状態」のスマネン分子に対して探針をゆっくり接近させ、押し込む力を加えました。その結果、ある限界の距離まで探針を近づけると、分子が反発力によって変形し、「下に凸な状態」へと反転することを確認しました(図2)。

図1 力による単分子の構造変換の概念図
(a)力による構造変換中のポテンシャルエネルギーの模式図。(IS) 探針が反応物から遠く離れているとき、系は初期状態にあり、終状態は遷移状態で隔てられている。この遷移状態によって、活性化エネルギー(Ea)が定義される。(TS) 探針が接近すると、ポテンシャルが変化し、障壁がなくなる。系は新しい極小点へと緩和し、熱 を放出する。(FS) 探針が後退すると、分子の状態は終状態に留まる。(b)構造変換中の力曲線の模式図。探針が反応物に接近する(緑色);最接近点で、系は遷移状態に達し、反応が起こる(青色);探針が後退する(赤色)。網掛け部分はエネルギー消費量(W)に対応する。
図2 力によるスマネン分子の反転の実験
(a)スマネンの構造モデル、上に凸なスマネンのAFM像、下に凸なスマネンのAFM像。(b) スマネン分子を反転する際の力曲線の実験データ(緑:接近、赤:後退)。(c) 探針による分子反転の模式図。
この反転時にAFMで精密に測定された力学的なエネルギー消費量(W)は0.3-0.5 eV でした。一方、密度汎関数理論(DFT)に基づく第一原理計算(注6)を用いて分子が反転する際に越えるべき活性化エネルギー(Ea)を算出したところ、0.67 eV であることが分かりました。すなわち、力学的に駆動された分子反転反応では、正味の消費エネルギーが活性化エネルギーよりも小さくなる(W<Ea)ということが実証されました。
この現象を詳細に解析したところ、AFM探針先端による局所的な「反発力」だけでなく、探針全体から作用するファンデルワールス相互作用が重要な役割を果たしていることが判明しました。探針が分子に接近する際、引力的ファンデルワールス相互作用によって探針側は力学的エネルギーを受け取ります。このエネルギーのやり取りによって、分子の反転に必要な活性化エネルギーよりも、外部から投入するエネルギーを小さくできることが分かり、実質的なエネルギーコストが削減されることが明らかになりました。
【今後の展望】
本研究は、機械的な力を用いて単一分子の構造変換を起こす際、探針との相互作用によって、活性化エネルギーを下回るエネルギー消費で反応を進められるという新しい動作原理を提示しました。
この発見は、従来の熱反応や光反応とは違った、メカノケミストリーの優位性(エネルギー効率の高さ)を理論的・実験的に証明したものです。今後、本機構をさまざまな分子系や触媒反応へと応用することで、エネルギー損失を抑えた省エネ型ナノ分子マシンの動作や、機械的刺激を活用した高効率な分子触媒の開発など、ナノテクノロジーや分子科学における新たな領域の開拓につながることが期待されます。
発表者・共同研究グループ情報
東京大学大学院新領域創成科学研究科
岩田孝太 特任研究員(研究当時)
黒木龍 大学院生(研究当時)
杉本宜昭 教授
大阪大学大学院工学研究科
濵田幾太郎 教授
久能欄丸 大学院生(研究当時)
榎本大矩 大学院生(研究当時)
櫻井英博 教授
論文情報
雑誌名:Nature Communications
題 名:Force-driven single-molecule transformations through tip-mediated stabilization of transition states
著者名:Kota Iwata, Ikutaro Hamada, Ranmaru Kuno, Taku Enomoto, Ryu Kuroki, Hidehiro Sakurai, and Yoshiaki Sugimoto*
DOI: 10.1038/s41467-026-78541-6
URL: https://www.doi.org/10.1038/s41467-026-78541-6
用語解説
(注1)原子間力顕微鏡(AFM):
鋭い針(探針)を観察対象(試料)に近づけて、探針先端の原子と試料表面の原子との間に働く力を測定することで試料表面を観察する顕微鏡。試料の導電性を問わず用いることができる。
(注2)活性化エネルギー:
反応物が生成物へと変化する化学反応において、反応を進行させるために乗り越えなければならないエネルギーの障壁(高さ)。
(注3)スマネン(sumanene):
サンスクリット語、ヒンディー語で「花」を意味するSumanに由来する椀(ボウル)状の共役多環炭化水素分子(C21H12)。サッカーボール状のフラーレン(C60)の骨格の一部を切り出した構造を持つ。
(注4)ファンデルワールス相互作用:
原子・分子間に普遍的に働く長距離の相互作用。離れた位置にある物体の間にも作用する。
(注5)メカノケミストリー:
熱、光、電気などの代わりに、圧縮、引っ張り、摩擦、剪断といった「機械的な力(力学刺激)」を与えることによって化学反応を駆動・制御する化学の分野。
(注6)第一原理計算:
実験データを再現するための経験的パラメータを用いず、量子力学に基づいて物質の電子状態、分子構造、エネルギーなどを計算する手法。

