酸素分子の「スピン」が引き起こす分子配列の歪みを可視化――原子位置から磁性を分析する道が開ける――
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東京大学
北海道大学
発表のポイント
◆非接触原子間力顕微鏡(AFM)を用い、銀基板上に吸着した酸素分子(O2)の単分子層を、非破壊に原子レベルで観察することに成功。
◆酸素分子の磁気的な性質(スピン)が原因で、三角形の格子状に並んだ分子の配列が「歪む」現象を、実空間での直接観察により初めて観測。
◆磁気ドメイン(磁化の向きが揃った領域)の境界における特殊な磁気構造を解明。原子の位置から磁気情報を読み取る新手法を確立。

原子間力顕微鏡によって酸素分子の磁気構造を観察するイメージ図
概要
東京大学大学院新領域創成科学研究科の杉本宜昭教授らの研究グループは、北海道大学大学院工学研究院附属エネルギー・マテリアル融合領域研究センターの國貞雄治准教授の研究グループと共同で、非接触原子間力顕微鏡(AFM、注1)を用いることで、固体表面に吸着した酸素分子の単分子層において、分子が持つ「スピン」(注2)の相互作用によって分子配列(格子)が歪む様子を実空間で観察することに成功しました。
これまで、酸素分子のような絶縁性かつ結合の弱い「物理吸着系」において、磁気構造と相関した微小な格子歪みを直接観察することは極めて困難とされてきました。本研究では、高解像度でのAFM観察と、密度汎関数理論(DFT、注3)計算およびモンテカルロシミュレーション(注4)を組み合わせることで、「磁気的な秩序化がどのように分子の位置を動かすのか」という物理現象を詳細に解明しました。
本成果は、ナノスケールの磁性体研究に新しい解析手法を提供するとともに、将来の量子コンピューティングや高密度磁気ストレージ技術の基礎となる低次元磁性体の理解を大きく進展させるものです。
発表内容
【研究の背景】
酸素分子(O2)は、私たちの呼吸に欠かせない身近な物質ですが、実は「スピン」という磁気的な性質を持つユニークな分子です。酸素が極低温で固体(固体酸素)になると、隣接する分子同士のスピンが反強磁性的(互いに逆向き)に並ぼうとする力が働きます。
特に、分子が1層だけ並んだ「単分子層」は、2次元的なスピン系として物理学的に非常に興味深い対象です。高温状態では分子は正三角形の格子を作りますが、温度を下げて磁気的な秩序(反強磁性)が現れると、スピン間のエネルギーを最小化するために、格子の形が正三角形から二等辺三角形へと歪むことが予測されていました。
しかし、この歪みは極めて小さく、また酸素分子層は電気を通さない絶縁体であり、分子同士の結合も非常に弱いため、従来の走査型トンネル顕微鏡(STM、注5)などでは分子を動かしてしまい、その正確な姿を捉えることができませんでした。
【研究の内容と成果】
1. 極低温AFMによる「非侵襲」原子解像度観察
研究グループは、4.5 K(K=ケルビン、4.5 K=マイナス約269度)の極低温下で、銀基板上に吸着した酸素分子層を、AFMで観察しました。個々の酸素分子の位置を高い精度で特定することに成功しました。
2. スピン誘起格子歪み(注6)の直接観察
温度を20 Kから4.5 Kへ下げながら酸素分子層をAFM観察した結果、12 K付近で相転移が起こることを実空間で初めて確認しました(図1)。高温(20 K)では、分子配列は完全な正三角形を形成し、低温(4.5 K)では、二等辺三角形へと格子形状が歪むことを観測しました。これは、スピンが互いに逆向きに並ぶ際、エネルギー的に最も安定する位置へ分子が自発的に移動するスピン誘起格子歪みの証拠です。

図1 銀基板上の酸素分子の単分子層のAFM画像
酸素分子は基板に対して直立して吸着しており、個々の酸素分子が白い輝点として観測されている。AFM画像中の小さな三角形が示すように、酸素分子は三角格子で配列している。個々の原子位置の詳細な解析により、酸素分子は20 Kにおいては正三角形(平均辺長 3.32 Å(オングストローム、1Å=10-10m))で配列し、4.5 Kにおいては二等辺三角形(長辺 3.46 Å、短辺 3.26 Å)で配列していることが分かった。(原論文の図を改変したものを使用しています。)
3. シミュレーションによる格子形状の再現
DFTに基づく第一原理計算(注7)により、銀基板から酸素分子へわずかに電子が移動することで、酸素分子のスピンが約10%減少していることが明らかになりました(図2)。このスピンの減少を加味して、モンテカルロシミュレーションを行うことによって、スピン誘起格子歪みを定量的に再現することができました。

図2:DFT計算による酸素分子の電子状態
酸素分子が銀基板に吸着すると、銀基板から酸素分子へ電子がわずかに移動する。その結果、酸素分子のスピンが10 %減少する。上の挿絵が電荷移動、下の挿絵はスピン密度を表す。(原論文の図を改変したものを使用しています。)
4. 磁気ドメイン境界の局所構造
さらに、個々の分子の位置を解析することで、スピンの向きが異なる領域の境界(ドメイン境界)を可視化しました。ドメイン境界では、磁気的なエネルギーの損失を避けるために、格子が内部とは異なる特殊な歪み方をしていることが分かりました。これは、「原子の位置さえ分かれば、そこにある見えない磁気の並び(スピン構造)を推定できる」という新しい解析アプローチの有効性を示しています。
【今後の展望】
本研究は、酸素分子だけでなく他の物理吸着系の解析に応用可能です。原子操作技術(関連情報参照)を用いてこれらの磁性分子を自由に配列させれば、理論的に予言されている「ハルデン磁性体(1次元磁石の特殊な状態)」などの人工的な磁気構造を設計し、その性質を直接検証することも夢ではありません。この成果は、ナノ磁気デバイスや量子情報処理の基盤となる低次元物理学の研究を加速させる重要な一歩となります。
〇関連情報:
「プレスリリース:針型金属触媒の超精密操作によりナノ炭素材料を合成 -銅の針を近づけるだけで分子から水素原子が引き抜かれる化学反応を発見-」(2020/11/11)
https://www.k.u-tokyo.ac.jp/information/category/news/8377.html
発表者・共同研究グループ情報
東京大学大学院新領域創成科学研究科
木村光男 研究当時:博士課程
杉本宜昭 教授
北海道大学大学院工学研究院附属エネルギー・マテリアル融合領域研究センター
國貞雄治 准教授
論文情報
雑誌名:ACS Nano
題 名:Real-space observation of spin-induced lattice distortion of O2 monolayers revealed by atomic force microscopy
著者名:Mitsuo Kimura, Yuji Kunisada, Yoshiaki Sugimoto*
DOI: 10.1021/acsnano.5c11357
URL: https://doi.org/10.1021/acsnano.5c11357
用語解説
(注1)非接触原子間力顕微鏡(AFM)
鋭い針(探針)を観察対象(試料)に近づけて、探針先端の原子と試料表面の原子との間に働く力を測定することで試料表面を観察する顕微鏡。試料の導電性を問わず用いることができる。
(注2)スピン
電子などが持つ、小さな磁石のような性質。このスピンの並び方が、物質の磁性(磁石になるかどうか)を決定する。
(注3)密度汎関数理論(DFT)
物質中の電子の状態を計算し、その性質や構造を予測するための計算手法。
(注4)モンテカルロシミュレーション
乱数を用いて膨大な数の計算を繰り返すことで、複雑なシステムの安定状態を予測する手法。
(注5)走査型トンネル顕微鏡(STM)
鋭い針(探針)を観察対象(試料)に近づけて、探針と試料表面の間を流れる電流を測定することによって試料表面を観察する顕微鏡。導電性のある試料しか観察できない。
(注6)スピン誘起格子歪み
互いのスピンの向きに依存した力が、原子や分子を物理的に動かし、結晶構造(格子)を歪ませる現象。
(注7)第一原理計算
量子力学の基礎方程式から出発して数値計算により物質の安定構造や物性値を計算する方法。物質表面などの大規模系の計算には主に密度汎関数理論に基づく手法が用いられる。数百原子系の計算にはスーパーコンピュータが使用される。
関連研究室

